2009年12月25日

メリークリスマス!

りんご一個むいて食べることがこんなにしあわせ

一片の唄を喜ばれる今夜

よごれたからだにやさしく触れられた夏を思う

はやくも日が長くなりはじめた冬の日に
posted by mipochi at 20:54| Comment(1) | TrackBack(0) | 心のことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月17日

ケアのこと

お産での入院が、初めての入院だった。

看護師さん、助産師さんのケアがすばらしかった。
心身のケア。
毎日担当が変わって、個性もいろいろ、楽しめた。
それにしてもみなさん姿勢が良い。
姿勢をよくすることをよくよく学んでいるんだろうか?
人を介抱する仕事は首、背中や腰に来そうだが。
いい姿勢でないと、故障につながり、長続きしない仕事なのかしら。

いいケアの仕事をするためには、その人を支えるいいケアが必要なんじゃないかと思った。

新生児を育てるのは毎日24時間介抱しているようなもので。
その私をケアしてくれる手が、心がほんとうにありがたかった。

どんな仕事でも、ケアには手厚いケアが必要だと思う。
友人が介護の仕事について、同じようなことを語っていたなあ。

で、看護師という仕事。
何か強めの動機やきっかけがないと、若くして看護師に、助産師になろうと思わないんじゃないだろうか。
などと思う。
あの助産師さん、看護師さんたちを思い出すとき
その心を聞いてみたいと思う。
posted by mipochi at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月09日

産後覚書・3

車に子どもを乗せるのが今でも怖い。

PTSD。
暗澹とした気持ちで、家族揃っての生活が始まった。

2時間おきの授乳。間隔のない日もあった。
何をやってもやらなくても機嫌が悪く激しく泣くわが子。
トイレに行くのも、食事をするのも、許されないことのように感じられた。
気配が感じられないと子はすぐに気がつく。
もうろうとしながら見るのは、車が衝突する夢。

まだ暑い折。
ひとり育児に奮闘する部屋の窓は開けていた。                                                    
通りがかる車の音は危険なスピードを感じさせる。
(この子が歩けるようになったとき、どうやって危険を防ごう・・・)
そんなことに胸が締めつけられる。
外を歩く人の声。怒っている。攻撃的な声。
(その怒りの矛先が、うちに向かってくるんじゃないだろうか)
悪いことばかり思い浮かぶ。
脅えて暮らしていた。



子どもが退院して2ヶ月。
物忘れ。人の話をきいているようで聞いていない(聞いても覚えられない?)。
手伝いの母たちがいない間、まともに食事するひまもない。
暑いのにシャワーを浴びる時間すらない。
栄養状態が悪いせいか、頭痛がし、やる気が出ない。
母乳が薄い?泣き叫ぶわが子。
八方ふさがり。
産後うつかも、と思った。

助産師に相談した。
産後うつの疑いは、とりあえずないようだが、とても疲れている様子。
眠れるように、添い寝して授乳してみては、と提案がある。
ちゃんと食事ができるように家事代行などの行政サービスがあれば申し込んでみては、大変だろうが動いてみて。と次回の相談を予約しつつ・・様子を見てみることになった。

この日から、魔法がかかったかのように、楽になっていった。
添い寝授乳で、ねむれるようになった。母はもちろん、子も。
満たされなかった触れ合いが、やっと果たされたという感じ。
情緒が落ち着いた。
週に1回くらいか、友人が手伝いと話し相手に来てくれるようになった。

そうこうしているうちに、よく笑うようになってきた。
機嫌のいい子どもほどかわいいものはない・・

母が精神的に疲れているときは、こどももぐずぐずでとめどがなくなる。
毎朝、ご機嫌で元気をくれるわが子にキス。

食事の支度もできるようになった。(それまで作り置きを食べていた)
作りたてはおいしい。
いつ泣くか?というスリルを感じながら、あたたかいお風呂にも入れる。
生きた心地・・・



事故について。
事故当時、私は実母への怒りを募らせていた。
現在まで抱えてきた怒りや怖れに、向き合うときがきた。


心の通う友人と、義母の存在に助けられている。
義母は冷静に観察し、必要なときには手厚くし、それ以外には私の自立を妨げない。彼女にはありのままを見せられる。
そして夫と共依存の関係にならないよう、相談に乗り、適切な物言いをしてくれる。色々な家族を、見てきた義母。不得意を攻めず、挑戦しつづけるエネルギーを分けてくれる。凝り固まらない人柄が魅力だ。長年主婦として力を発揮し、自分の居場所を確立してきた人が身近にいるのは幸いだ。
おばあちゃんとして、孫を心からかわいいと思ってくれるのが、またうれしい。
このような強力なガイドもいることだし、私は本気で成長することにした。
元気に毎日の生活をすることに、惜しまず、面倒くさがらない自分が新鮮だ・・・
食事の支度、お風呂、面倒くさいだけだと思っていた。
何も出来ないとなると、猛然と、やりたくなる。
スイッチが入ったみたいだ。
コミュニケーションの能力は、転びながらもなんとか磨こう・・・
こどもが友だちと遊ぶころまでにはマシになっているはず・・・
posted by mipochi at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

産後覚書・2

「体重が2000gを越えたころ、退院できるでしょう。順調にいけば1ヶ月くらいでしょうか。」
医師の見通しのとおりとなった。
それほど、低体重以外は問題がなかった。
出生体重は1666g。
500gなど、極小で生まれる子どもを受け入れられるNICUにしてみれば、安心確実な大きさ子だ。

出産の前に、超音波で問題のあった胎盤と、胎児の状態を詳しくみたのだが、その医師は世界に通用する?超音波の専門医らしく、軽やかな楽しい人柄だった(ここ重要)。 
胎児の心臓周辺の血管に異常を認めなかった。これは、早くに取り出した場合に、NICUで治療するための安心材料だった。
胎盤は生気を失った部分があり、そのため充分な栄養が胎児に行き届かない。そのため胎児の心拍モニターは、不活発で起きている時間が少なかった。
さらに状態のよくない胎盤は、早期剥離を起こす危険性があった。
そうなると、緊急手術になり、子どもの命に危険が及ぶ。

予定日は妊娠40週に設定され、37週以降が問題のない出産とされている。
34週に入ろうとしていた。
34週になれば、肺の機能が出来上がるという。
胎児の心拍モニターから元気のなさが認められたら、帝王切開に踏み切ろう、と合意。
つい数日前まで普通分娩日し、母子同室できると思っていた私は心の準備ができていなかった。
37週までもたせられる可能性もあるとの説明もあった。

検査の翌日、34週0日。
午前中の心拍モニターで、胎児の元気のなさが認められ、手術の運びとなった。
私は動揺した。幸い夫がその場にいてくれた。
手術の準備から術中、術後も、うろたえていたわたしを助産師がやさしく声をかけ、手当てしてくれた。「私が赤ちゃんを取り上げます」頼もしい人だった。

緊張と横になって長い時間を過ごしたせいか、術中頭が苦しかった。
しきりに首を左右に振る。
助産師が手を握り、麻酔医がやさしく声をかけ、異常がないことを確認する。
進行の説明があり、羊水を吸い取っている音が聞こえますか、まもなくですよと聞いてすぐ、産声があがった。とても元気な声。
控えていたNICUの医師が隣の部屋で処置をし、安全を確かめ
助産師さんが、約束どおり赤ちゃんを連れてきてくれる。
子どもの状態がよければ、短い時間でも、カンガルーケアをとお願いしていた。
泣いているわが子は私の胸の上で、「おんぎゃあ おんぎゃあ あ?」と一瞬泣き止んだ。おお!と感動。
次に助産師さん、何を思ったか(できるだけのことをしてあげようと思ってのことだろう)私の口に赤ちゃんの口を・・・
泣いている子の口は・・・海の香りがした。
泣いているときの、香りだ。
ああ、一人前なんだな、と思った。



回復期治療室にはほぼ毎日、同じ顔ぶれの母たちがいた。
保育器を出ても、口が小さく哺乳力のないわが子は授乳しても、ぬくもりで眠ってしまう。
「修正39週になれば目覚めますよ」看護師の母乳育児ケアはここでも続く。NICUは以前父母さえも面会ができないほどだったという。ここでは感染は重大な事態を招くからだ。
現在は父母とのふれあい、母乳が治療中の乳児にこそ、心身の発達に大切と認められた。
哺乳力の弱い小さな子どもたちを抱いて、母親が途方に暮れないようにと、努力しながら気長に待つよう指導がある。
「○○ちゃん、起きて〜」
授乳室で奮闘する母たちが、同じ苦労をしてその状況を一緒に楽しんでいた。


初めて母の私に沐浴指導があったころ、そろそろ退院してもいいでしょうということになった。
喜び勇んで、私は、産後一ヶ月検診を無事終えるまで車の運転はしないようにという禁を破り、自分で運転して病院に通い始めた。
片道1時間。
授乳しているせいか、目の疲れが激しい。
疲れはするものの、電車とバスを乗り継ぐよりは楽だったのだ。

日曜。家族揃って面会に向かった。
まだまだ暑い。保冷バッグに冷凍母乳をつめこんで病院へ向かう。
メインの道路から一本中に入った道。
しばらく農道のような細道を走り、やっと信号のある交差点が見えた。
病院まであと少し。
交差点に入った。青信号を直進するわたしたちの車に、左から車が突っ込んできた。
・・・絶句。



幸い大事には至らなかった。念のため、救急でみてもらった。
折りしも子どもの入院している病院だったので、うなだれながら、冷凍母乳だけでも届けよう、とNICUに向かう。
事故を知らせていたので看護師さんが大丈夫ですかと声をかけてくれる。
子どもが、火がついたように泣いている。こんなことは初めてだ。
「(昼の)1時の授乳の前から、こんな風に怒って泣いてます・・・ずっと・・・」
周りの人たちが話ができないほどの泣き方。

1時前。事故が起きた時間だ。


小さい子どもは母親の感情と密接に繋がっているという。
それまでおとなしくて、あまり泣かず看護師さんを困らせるようなことがなかった。この日、わが子は叩き起こされた・・・のか?

posted by mipochi at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

産後覚書・1

おかげさまで
こどもの成長に沿うように
信頼関係が出来てきた。

こどものご機嫌を伺って家事や生活をする毎日。
緊張感に身体はかたくなってはいるものの、少しは落ち着いてきた。
覚書をしておこうと思う。


今私のひざの上で満足そうに眠っているこども。

とても神経が過敏で、火がついたように泣くようになったのは退院する1週間前。
耳をつんざくというか、脳を直撃するような泣き声は非常事態を知らせるかのよう。(まさに非常事態を察してか、ある瞬間から始まったのだけど、その話はまたいずれ)
退院して2ヶ月、11月の初めころまで、少しずつソフトにはなったものの泣くといえばこの泣き方だった。


生後100日を迎えるころまで、ただただ必死で過ごした。
手伝いにきた義母が帰ると、孤独で押しつぶされそうになった。
子どもと一緒に苦しんでいた日々だったのかな、と思う。


子は、母のお腹の中でひどく苦しかったかもしれない。
たぶん苦しかったのだろう。
また生まれて直後、最初の温かい時間を得られなかった。
あたりまえに出来ると思っていた母子同室はもちろんなし。

今になって、子の力強い泣き声を聞くと思う。
苦しかった分、思う存分泣きなさい。


本来だったら四六時中触れ合ってぬくもりを確かめる、新生児の時期に
1ヶ月入院。
毎日母が面会に通ったものの、私自身、お世話するときは借り物を預かるような、ある意味よそよそしさのようなものがあった。
低体重で生まれると、NICU(新生児集中治療室)に入院となる。
最初は手先だけでしか触れられない保育器にいる。

出産の術後、私自身の血液中酸素濃度が下がったため、肺血栓を起こさないよう配慮し、その日のうちに子どもに会いに行くことができなかった。
次の日夜遅くになってやっと歩いてもいいということになり、
お腹を切ったばかりの人とは思えないような、まっすぐな腰の角度で看護師さんを驚愕させつつNICUへ向かった。
夜なので部屋の明かりは落として暗い。聞こえるのは測定器などの出す機械的な音。
やっと会えた小さいわが子は、保育器の中で泣き叫んでいた。
こんなに泣いても、保育器の中に自分の泣き声が充満している。外にはその振動のように聴こえるのみ。逆に外から誰がやさしく話しかけたとしても、クリアには聴こえないだろう・・・と思うとあまりにも不憫だった。


次の日会いにいったときだったろうか。
担当の医師がちょうど検査をし終わったところだった。
父親は術後すぐにNICUに行き、医師から説明を聞いていた。
私はこのとき初めてお会いしたので、生まれたときと、その後の経過の説明があった。
「生まれた直後は血糖値が下がっていたが、処置をしてすぐに回復。その後問題なし。これは低体重で生まれた子にはよくあること」
口元には栄養を直接胃におくるためのチューブ、大人の小指も太すぎて握りこめないほどの小さな手には輸液などをおくるための針が指してあり、腕に板で固定されている。足には血中酸素濃度のモニターがつながれている。
あまりにもけな気な姿に、涙がこみあげる。
医師はそっと立ち去った。


その後は、看護師にオムツの替え方を教えてもらったり
口から飲めるようになったら(最初は3ccとか少しずつ)、哺乳瓶で飲ませ、手で頭部を支えてげっぷをさせる。
毎日体重をきいて、増えているのを知っては喜び、
飲む量が増えたのを聞いては喜び3時間おきの哺乳に合わせて面会。


私自身は回復と母乳開通のため、病室で看護師、助産師のみなさんにお世話になる。夜中も含め、3時間おきに搾乳。これは子どもが退院するまで続いた。眠さとの闘い。
スタッフの手厚いケアのおかげで入院中は楽しく、やりがいがあった。
妊娠中にひどかったむくみが退き、体重は激減。
9日間を経て退院。お盆すぎのまだ夏が終わらない午後。
タクシーから見る田んぼの青さが日の光をうけて眩しく、どこも輝いて見えた。夫とふたりでの帰り道。
外の世界!
子どもを病院に残しているためか、病気ではないものの弱った身体で、生きる方を向いてスタートしたためか、胸にぐっとくる眩しさ。

久しぶりの自宅は慣れない。
まるで知らない家のよう。家具が、床が、初めて見るもののよう。
さっきまでいた病院には出産を控えた母たち、毎日生まれてくる子どもたち、そのスタートを支えるたくさんのスタッフ。
難しい症例を扱う病院は、母たちの心の通い合いがあり、同じ病室でも遠くから眺める者同士、スタッフと一緒に奇跡をみつめるおもしろさと感動であふれていた。
自宅には、夫と義母と自分。
たったそれだけ。
父母としての責任だけが目の前にある。
家事をし、私の心のケアを引き受けた義母の性格の明るさ、楽しさ、賢さがあっても、なお静かな家。
その静けさが心に重くのしかかった。


次の日から冷凍母乳を持って、面会に通う。
母乳は低体重の子どもに合わせて栄養の高いものが出るという。
少しでもたくさん飲んでもらおうと必死だった。
本来なら自宅で療養する期間に外出するのはなかなかしんどかった。
家族が心配し、支えてくれた。

ある日、こどもの手に刺さっていた針が取り除かれた。
またある日には保育器から出て、新生児用のベッドに移されていた。体温調節が出来るようになったということ。最初は厚着でタオルに巻かれていた。
そしてNICUに隣り合わせた回復期治療室に移動。退院まで過ごす最後の部屋だ。

つづく
posted by mipochi at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする